勝連の按司「阿麻和利加那」


勝連按司 阿麻和利とは


 幼名を「加那(カナー)」といい、これは当時の琉球においてはごく一般的な名前です。本土でいう「太郎」的なものになります。
 阿麻和利と言われた由来は、天降り(あまおり)ともいわれ、天から降りてきた阿麻和利様と慕われていたことが想像できます。

 北谷間切屋良村(ちゃたんまぎりやらむら)で産まれた加那は、すぐれた才能の持ち主で、勝連の按司に仕えました。領民の信望を得た加那は、9代城主・茂知附にかわって城主・阿麻和利となると、大和をはじめとする対外交易を活発に行い、この勝連を大いに繁栄させたと伝承されています。
 その様子を、沖縄の古謡「おもろさうし」(おもろそうし)に、次のように謡われています。
一 かつれんわ なおにきや たとゑる
   やまとの かまくらに たとゑる
又 きむたかは なおにきや
  (勝連は、なんにたとえようか、京都や鎌倉にたとえる
   又 気高き勝連は、なんにたとえよう)
一 かつれんの あまわり
   とひやくさ ちよわれ
又 きむたかの あまわり
又 かつれんと にせて
又 きむたかと にせて
  (勝連の阿麻和利、千年も万年もこの国を治めよ、
   又 気高き按司阿麻和利よ 又 勝連にふさわしく
   又 きむたかの名にふさわしく)
 若くして勝連の按司となった阿麻和利は、1458年、宿敵護佐丸を打ち、天下統一を夢見たが王府軍に攻められて落城し、廃城になったといわれています。(護佐丸・阿麻和利の乱)

 この護佐丸・阿麻和利の乱で、阿麻和利は琉球史上最大の逆臣とされていますが、勝てば官軍の理論で首里王府(治世者)にとって都合の良い歴史を残されているだけかも知れません。真の歴史は闇の中ですが、おもろでうたわれるように庶民に慕われる善政を敷いていた按司というのは確かのようです。
 阿麻和利は、自分の義理の父(尚泰久王)と義理の祖父(護佐丸)を裏切る行為をしたのでしょうか。護佐丸の時には、そうせざるを得ないように追い込まれたのでしょうか。
 これを紐解く鍵は、金丸(後の第二尚氏王朝初代尚円・現在は玉陵に眠る)でしょうか。当時、首里王府と中城の護佐丸、勝連の阿麻和利は共にそれなりの富と権力を持っていました。この3者を上手くそそのかし、共倒れにさせて権力を衰退させ、取って代わって自分が王になるという筋書き(策略・謀略)をこの頃から描いていたのでしょうか。



※北谷間切屋良:沖縄県中頭郡嘉手納町屋良。道の駅かでな、安保の見える丘周辺。近くを流れる比謝川沿いに屋良城跡公園が整備されている。